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本田圭佑と家長昭博-2

ふたりの記事まとめ2
2014年の本田さん記事ジュニアユースの話

『週刊サッカーダイジェスト』2014年7月10日発行 『日本代表23人の少年時代』

有言実行――。
 本田圭佑という男の人生は、このひと言に凝縮される。1986年6月13日、大阪府摂津市で生を受けた彼が、こうした信念を貫くことができたのは、挫折を味わった中学時代と、大きな成長を遂げた高校時代が大きなベースとなっていた。
――◆――◆――
 小学校時代の本田は左足のキックを武器に、メキメキと頭角を現わしていった。
摂津FCは全国大会に出られるような強豪ではなかったが、彼はひとりで試合を決定づけてしまう、
まさにエースだった。本田は当時のことをこう振り返っている。
「小学校の時は上手い選手とやれる機会が少なかったし、地域レベルの相手だったら当然のように自分の思うようなプレーができた。『俺が一番』って環境だった」

 本田少年は、まさに“王様”だった。そして、「プロサッカー選手になり、世界でプレーをしたい」と、夢を膨らませていく。
 壮大な夢を持って、彼は関西のエリートが集結する名門のガンバ大阪ジュニアユースの門を叩いた。ところが、そこで待っていたのは、厳しい現実だった。

「関西の上手い奴がいっぱい集まってきていて、戸惑った。家長昭博/現・大宮)もそのひとり。別に自分が負けているとは思わなかったけど、少なくとも確実に『俺が一番だ』って言える状況ではなかった」
 本田の前には常に家長の存在があった。普段は親友と言える仲だったが、ピッチに立てば妥協なく競い合い、常に周囲から同じ左利きでもある家長と比較される日々が続いた。
「俺は周りにどう言われようと関係なかった。プロになることだけを考えて、そのために妥協しないでプレーをする。そのことだけを意識し続けていた」

 しかし、その熱い想いとは裏腹に、本田の評価はなかなか上がらなかった。
苛立ちが募り、当時の監督だった島田貴裕(現G大阪スクールマスター)に意見することもあったが、「後ろを向いても意味がないし、ふてくされても意味がない。常に前を向いて、自分の次のステップに向けて、常に前向きにプレーしろ」という島田からの言葉を胸に、練習に励んだ。
 本田の良さは、強い意思と行動力だけではない。たとえ不満や苛立ちが募っても、人の話には必ず耳を傾けてきた。そして、必要だと感じれば素直に取り入れる、そんな自らを客観的に捉える目も持っていた。本田は当時を思い出す。
「あの頃は、四六時中、燃えたぎっていたからね(笑)」 強烈な反骨心と、置かれた現状を受け入れる冷静さを併せ持った本田は、その時点である明確な目標を持っていた。

「プロになるためには、いろんなスカウトマンや関係者にプレーを見られないといけないと思っていた。そのためには、注目度の高い高校選手権に出て活躍しなければいけない。だから選手権に出られる高校に進もうと考えていた」
 実はG大阪ジュニアユースに籍を置いたばかりの頃から、ユース昇格ではなく、高校でのプレーを思い描いていたと言う。
「中1の頃から、もう高校に行くと決めていた。たとえユースに来いと言われてもね。
俺は高校サッカーを見て育ったし、高校で一番上手い選手になれば、絶対にプロになれる、というイメージがあったから」

選手権へのこだわりを表わす、こんなエピソードもある。
彼が中学1年で、G大阪ジュニアユースのスタッフが選手たちを集め、将来について話をしている時だった。
「ユースに上がって、プロを目指したい人は手を挙げて」と問われると、本田と家長だけが手を挙げなかったという。
結果的に、本田はユースに昇格できなかった。
ただ、ユース昇格を果たした家長も、最後の最後まで滝川二高に進学するかどうか悩んでいたそうだ。
 中学1年の頃から本田は、明確な将来像を持っていた。だからこそ、3年になってユースに昇格できないという事実を伝えられても動じなかった。

 ユースに昇格できないことは、三者面談で告げられた。クラブ関係者から「残念だが昇格できない」と伝えられた時、本田によると、「いつもは明るい父親(司)も、そこではなにも言わなかった。『はい、分かりました。ありがとうございました』みたいな感じで終わったんですよね」。
 しかし、その帰り道のことだった。
「父から『お前、見返さなくちゃいけないよ』って言われたんです」 
進学先について、本田は帝京高の3年生だった兄・弘幸に相談していた。
「ポゼッションスタイルを志向していて、全国大会にまず確実に出られるチーム。でも、そこまで名門じゃないところがいい。どこかないだろうか」
 兄のなかで浮かんだのが、石川県の私立高だった。
「星稜がいいんじゃないか?」
「セイリョウ?」
 本田にとって縁もゆかりもない校名に、最初はピンと来なかった。

それまでの本命は、G大阪ジュニアユースの先輩から誘われていた四日市中央工高だった。しかし、かねてから「レールの敷かれている環境より、俺のことをまったく知らないところでチャレンジしたい」と語っていた彼は、星稜高に関心を持ち出す。
 兄の口から、なぜ星稜高の名前が出たのか。それは星稜高が中心となって開催される「金沢フェスティバル」に、弘幸が帝京高の一員として参加し、そこで人工芝のグラウンドや研修所など、環境の良さを目の当たりにしたからだった。
 さっそく彼は父に相談した。本田は周囲から「なぜ石川なんだ」「大阪の高校でやったほうがいい」などと、星稜高行きに反対されていた。だが、父は違った。
「お前が行きたいんだったら、そうすればいい。好きにしていい」
 本田はこう振り返る。
「父親は俺が自分で考えて決めたことに、反対することは一度もありませんでした」

 父の後押しを受け、彼は石川県金沢市に降り立った。そこで待っていたのは、兄の言葉通りの良質な環境と、これまで出会ったことのない、ドンと構えた懐の深い指揮官だった。星稜高監督、河崎護である。
「圭佑が中学3年の9月頃、G大阪の担当者から電話で、『ひとりウチの選手を見てくれないか』と言われ、10月の頭に一度、圭佑がここに来たんです。県外からまったく知らない選手が来ることは初めてだったので、どんな風に受け入れていいのかすら分からない状況でした。だから、とりあえず試合で使ってみたんですよ」
 
河崎は中学3年の彼をレギュラーチームの一員として、四日市中央工高のAチームとの練習試合に出場させたのだ。
 そこで本田は圧巻のプレーを見せた。左サイドハーフに入った彼が、コーナーフラッグ付近でふたりのDFに囲まれる。
DFを背にしてボールをキープし、逃げ場のない状況になる。
これはCKを取るぐらいしかできないな……と誰もが思った瞬間、鋭くワンステップで反転してDFを抜き去り、左足を振り抜いて正確なクロスを上げた。このプレーに、河崎も驚愕した。
「軸がまったくぶれず、あの状況からワンステップで局面を打開するとは、どういうセンスをしているんだと思いましたね。中3でありながら凄いなと。あの技術の高さは本当に衝撃でした」(河崎監督) 

ちょうど、新チームの左サイドがウイークポイントだったこともあり、河崎は迷わず本田の受け入れを決めた。
ちなみに、その練習試合のあと、
河崎が「君、いいキックを持っているね」と伝えると、
本田は「あれくらい、いつもできますよ」とさらっと言ってのけたそうだ。河崎は想起する。
「それに、圭佑のようなキャラクターは石川にはいなかったので、面白いなとも思ったんです。ただ、ちょっと生意気だなとは思いましたけれどね(笑)」

 本田は自らの力で、星稜行きの扉を開いたのだった。
 入学すると、とことんサッカーにのめり込んでいった。ただ、本田は背水の覚悟で、自らとも戦っていた。
「自分で決断した道だし、行動に責任が伴うのは当然。これでプロにならずに大阪に帰るなんてことは、絶対に考えられなかった。だから本当にハングリーだった」
 1年の頃からレギュラーを掴み、左サイドのキーマンとしてメキメキと力を付けていった。G大阪ジュニアユースで味わった悔しさをバネに、意欲的に練習に取り組む日々。そして、ひとたびピッチに立つと、先輩に対しても構わず厳しい指示を出す。
 これには当初、周囲も戸惑いを隠せなかったが、それが本田自身の覚悟の裏返しであることを理解していた河崎は、ピッチ上で異彩を放つ1年生レフティのやり方を否定しなかった。本田は言う。
「河崎先生は大阪体育大の出身で、大阪人の考えも分かってくれた。『良いところを思い切り出せ』と言ってくれたから、俺は好きなようにやらせてもらえた。周りや監督にガンガン意見を言ってね」

 チームは全日本ユースで準優勝を果たすと、優勝候補の一角として高校選手権に出場。待ちに待った「プロへのアピールの場」だ。しかし星稜高は、初戦で高知高に0-1で敗れてしまう……。
「サッカーの厳しさを痛感した。やっぱりここで勝たないと、プロ行きなんてないな、と。もっと厳しさを持って練習して、もっともっと活躍しないとダメだと分かった」
 実力的にも、意識的にも、大きく成長した1年だった。本人も「高1の時が、いろいろな意味で一番伸びた時期だったかもしれない。挫折した分を取り返すために、毎日必死にやっていたから。もう一度、自分で自分を盛り返せた1年だった」と振り返っている。 実はストイックに打ち込むことに、苦しんだ時期もあった。だが、彼の揺るぎない覚悟が、逃げることを許さなかった。
葛藤を繰り返す日々のなか、しかし自由にプレーできる環境を与えられたからこそ、彼はまっすぐ、かつ急速な成長を遂げられたのだ。
 2年になるとポジションを左サイドからセンターへ移し、チームの大黒柱としてナンバー10を背負う。ピッチ上での存在感はさらに増し、良く言えば責任感と自覚の表われ、悪く言えば突っ走りすぎている感があり、先輩との衝突は日常茶飯事だった。
「打てどまったく響かない時もあって、正直いろいろ悩んだ。本音を出しすぎると、そうなるとは分かっていたけど……。分かっていたんだけど、辛かった」
 
そう正直に胸の内をさらしたように、精神的な苦しさは1年時よりも大きくなっていた。これがプレーに影響し、存在感をまったく示せない試合もあった。しかし、「自分のプレーだけしていればいいという選手が多かった。でもそれは絶対に違う。勝つために話さなくてはいけないことが絶対にある。それは言うべきだと思っていた」と、本田は自らのスタンスを崩さなかった。

 苦しむ彼を救ったのは、同級生だった。当時2年生のレギュラー選手は数多くいて、本田と同じく1年の頃から定位置を射止めたFWの橋本晃司(現・大宮)らが、彼の良き理解者だった。橋本は思い出す。
「圭佑のことは僕らがよく分かっていた。喧嘩もしたけど、最後は笑い合っていた」
 サッカー選手の本田と、いち高校生の本田。“ふたりの本田”を同級生たちは受け入れ、決して彼を孤立させなかった。

 こうした周りのサポートにより、本田の意識も徐々に変化していった。この年の高校選手権、星稜高は3回戦まで駒を進めるが、迎えた初芝橋本高戦に本田は出場できなかった。累積警告でスタンド観戦を余儀なくされたのだ。司令塔を欠いたチームは2-2からPK戦の末に敗れ、3回戦で姿を消した。
「悔しかったけど、スタンドから試合を観たことで、仲間への信頼感の大切さを改めて学ぶことができた」
 サッカーはひとりではどうすることもできないと、改めて強く感じた。彼の意識はよりチームに、そして勝利に向けられていった。 3年生になると本田がキャプテンに就任し、チーム内での議論も活発に行なわれるようになっていく。
「みんなに要求するというより、『ここはこうしたほうがいいんじゃないか』とか、チーム全体を向上させたいと思うようになった。それで、できるだけ俺の考えをみんなに植え付けたいと思ってやっていた」
 本田は1年の頃から、「このままでは全国大会の上位には行けない」と危機感を抱いていた。彼は決して、自分だけが成り上がればいいという独りよがりな考えを持っていたわけではない。強気な発言をするのは、自分自身だけでなくチームのレベルを引き上げたいという想いからだった。そのスタンスは、今も変わっていない。
 
そんな本田のもとには複数のJクラブから誘いが届くようになり、04年に名古屋の特別指定選手となって、ナビスコカップの磐田戦でデビューを果たす。徐々に注目度が高まるなか、正式に名古屋への加入を発表し、最後の高校選手権に集中する環境を整えた。しかも星稜高のチーム状態が、上向いていた。
「選手権の頃には、もう俺からみんなに言うことはなにもなかった。選手権でみんな『すべてを見せてやる!』という気持ちになっていたからね」
 
仲間への信頼感。前年まではどちらかというと希薄だったその意識が強まり、チームは彼を中心に結束し、快進撃を続けた。
 結果的に準決勝で市立船橋高にPK戦の末に敗れたものの、石川県勢初のベスト4に勝ち上がり、星稜高と本田の名を、全国区へ広めた。
「本当に良い仲間に恵まれた。良い仲間がいたから俺がなんでもかんでもやらなきゃと思わなくて済んだ。時には味方に助けてもらおう、そんな考えを持てるようになった」
 高校の3年間で、本田の性格は間違いなく変わった。
「確かに変わった。味方の長所を生かしてやれば俺の良さも味方が引き出してくれる。最初は『俺がやらないとなにもできない』としか考えてなかったけど、実は俺も引き出してもらっていたんだと気付くことができた」
 この星稜高での3年間があったからこそ、本田は周囲を活かし、周囲に活かされながらプレーを楽しむ方法を知り、そのサッカー人生を大きく飛躍させることができたのだ。
「いろんな意味でベストな状況を、周りが作り出してくれた。河崎先生がそういう環境を作ってくれたお陰だし、感謝してもし尽くせない3年間だった」
――◆――◆――
 
「もっと高い目標がある。こんなところで満足していたら、そこに辿り着けない」
 この言葉は、本田が南アフリカ・ワールドカップから帰国後、恩師の河崎監督に発した言葉だ。「高い目標」とは、その後加入することになったミランに移籍することではなく、そこで活躍し、さらなるビッグクラブに移籍すること、そして、彼が信じて疑わない「ワールドカップ優勝」だ。
 目標に向かって、走り続ける覚悟がある限り、本田は中学、高校時代とまったく変わることなく、苦境を平然と受け入れながら、さらなる進化を遂げていくだろう。それが本田圭佑という男の生き様である。

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【2016/04/25 23:21】 | 北京世代 | コメント(0)
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Author:ma
数年ぶりに気になる
名古屋グランパス!
北京世代の時
本田圭佑
家長昭博好きだったので
ふたりの競演を
まだ夢みています( i _ i )

スタ観戦歴は
04年2ndステージ開幕戦〜
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